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2012年4月 6日 (金)

第3回せんがわ人形演劇祭“inochi”2012終了

久々の書込。東日本大震災から1年以上経った。昨年、その大地震の直前に開催されていたのが「第2回せんがわ人形演劇祭“inochi”」だった。
私は映像記録を担当しほぼ全ての演目をリハーサル、本番と観て、ビデオ撮影した。今年も「せんがわ劇場」で第3回目が開催され、同じようにほぼ全演目をビデオで撮影した。そのように記録することは珍しいことではないのだろうと思うが、劇団にとっても主催者にとってもよいことだろうと自負してやっている。
三回目となって記録の量も膨大になってきているのだが、ハードディスクに空きを作るために、見返したり、編集したりとよけいな手間も増える。そんなことを気にしつつフェスティバルが終わったあと編集は佳境に入っていくのだ。そして毎日、ビデオを見続けているのだが、そんな中で気がついたことがあった。

せんがわ劇場では今年も面白いラインナップになっていた。今回は初めに上演された「モノ語り◆水仙月の四日」について自分なりに考察したことを書き残しておこうと思う。
試しに書いているので、稚拙なところもあるかと思うが、ご勘弁のほど。ただ何かひっかかったらコメントでも入れていただければと思う。

2012年3月15日せんがわ劇場にて
「モノ語り◆水仙月の四日」
Dsc00160
原作:宮澤賢治 劇作:黒谷都
写真は始まってすぐのシーン。この舞台はとても美しく、はかなく、せつなく、悲しく胸を突かれるのだが、しかしそこでは終わらず、希望に満ちあふれたラストシーンを迎える。
全てが美しい舞台。
この舞台は人形も出てきているが全てが生きている。舞台装置やオブジェ、人の肉体、音、光、そして人形がすべて価値の優劣無く、場面場面で主役を演じていくのだ。
人形演劇と言うのだから人形が出て人が遣っているところがその人形の部分で他の人が動くところは舞踏だったり演劇だったりと別々に捉える人も多いと思う。

しかし、たぶん(私の想像だが)黒谷都は人だけが主役にならないように、気をつけて演出しているのではないだろうか。モノが主役になり、舞台装置が音が光が主役になり、人が主役になり人形が主役になる。

演劇のように出演者として人が主となり、台詞を語り、モノはあくまでそれを引き立てる道具と考えるのではなく、もっと精神的に解放されて、人が主にならず、モノが主になって物語を表現することが出来るのだということを貫いているように思える舞台なのだ。

じつはこの考え方は人形劇というものに接することが出来た人にとってはあまり違和感なく受け入れられることかもしれない。人形劇を始めると、表現する内容によって主役はヒトガタである必要はないと自然に気がつく。
(人形劇とあえて書いているが人形演劇という言葉を使うより最近はやはり人形劇と記した方が伝わるかと思って変えている。私としてはどちらも同じ要素の舞台制作物をあらわそうと思って使っている)

残念ながら日本ではこれを教えたり研究したりする学校はほとんどないので、理論的な後ろ盾が薄いのが難点なのだが、ヨーロッパやアメリカにはちゃんと大学に人形劇学科があり専門の研究者も多い。

たとえば、2010年にフェスティバルトーキョーで上演したジゼル・ヴィエンヌはフランス、シャルルビルメジェールの人形劇学校の出身で学問的に人形劇を学んでいる。
彼女の演出作品『こうしておまえは消え去る』では、舞台装置、人、音、声、人形、そして霧がやはり等価値で存在していた。アフタートークで観客の方が、「なぜ人が立っているのを見ているのに、霧で隠してしまうのか?」と質問があった時、彼女は「この舞台上に存在する全てのものが主役になる瞬間を持っている」と言った。霧もまた主役のオブジェとして存在していたのだ。この発言は人形劇学校を出ている彼女にすれば当然の答えだと思った。

ついでに付け加えるとヨーロッパの人形劇を教えている学校では舞台で遣う全てのものについて説明を求められ、すべてに答えられるように作る側も考えるように教えられることが多い。ジゼル・ヴィエンヌも舞台で起こったことを聞かれると、なにもかも説明出来るように話していた。
これは決して、言葉で舞台を説明するのではなく、なぜこの舞台上に存在するかという理由を話すだけなのだ。
日本では、<「なんとなく」そうした>ということをヨーロッパでは、なぜ「なんとなく」になったのか理由をつきつめて考える習慣があるということだ。これはたぶん日本の演劇の考え方の中には存在しない思考かもしれないが、なじまないと拒絶してしまうか、面白いと思って考えるかは捉え方だろう。
ヨーロッパでも人形劇を学んでいる学生や研究者と演劇を学んでいる学生や研究者はなかなか交流する機会がなく考え方も違うという話であるが、ようやく交流が出来てきているようで、演劇の演出家が人形劇に精通している方も多い。

話が少しそれたような気もするが、黒谷都がやはり「第1回せんがわ人形演劇祭“inochi”」の時に同時開催したアンサンブル公演「銀河鉄道の夜」を演出した時も、全ての舞台上のモノ、人が生き生きとうごめき、存在し語り部となっていた。現代人形劇を志している人たちでもなかなか人と人形をうまく舞台上に存在させることは難しいと思う。彼女の演出作品はそれだけで価値がある。
伝統人形芝居などはそれが技として作り上げられていることで揺るぎないものになっているが、現代の人形劇は今こそ表現としての形をはっきり考え伝えらるような研究や教育機関が必要なのかもしれない。

とりあえず、こんなことを考えたのだ。

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